勉強できない=頭が悪い、ということではない。

こんにちは

 最近、家庭教師のアルバイトをしていました。もうすぐ辞める予定ですが、活動する中で感じたことを書きたいと思います。

 

 私は高校生に、物理・数学・化学を教えていました。

家庭教師に勉強を手伝ってもらう生徒は皆、勉強が得意or苦手すぎて周りとペースが合いません。私は苦手な方の生徒達を担当しました。

 

 もしかしたら、「勉強ができない子=頭が悪い 又は 努力が足りない」

という認識をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。

私も家庭教師になる前はそのように考えていました。

しかし生徒達と接するとともに、勉強ができない=頭が悪い訳では無いこと、また努力が足りない訳でも無いことが徐々にわかってきました。

 

 まず、頭が悪い、とはどういうことでしょうか?

一般的なイメージは、今の日本の教育制度上定められた国数英社理などの教科で与えられた問題をスムーズに解くことができないことではないかと思います。

本当にそうでしょうか?

 私は、「頭が悪い」人は実際にはおらず、ただ単に自分の体質に不適合なことをやるから効率良くこなすことができず、頭が悪いと見做されてしまうのだと考えています。(強いて言うなら、「頭が悪い」=「柔軟さが無いこと」だと考えます。)

 私が担当した生徒達は皆努力家で、初め宿題をほとんどやってこなかった子も出し方の工夫次第で徐々に宿題をやってきてくれるようになりましたし、一日に何時間も勉強しているようでした。成績も徐々に上がりました。しかし、元々成績の良い子と比べると、努力と成果が全く比例していないことが感じられます。これは本当に可哀想なことだと思います。好きでも無いことを一生懸命やっても思うように成果が出ない。これではやる気がなくなってしまうのも当然だと思います。だからと言って彼らに何の能力も無いのかというと、そんなこともありません。絵が得意だったり、会話が上手だったりと、それぞれが得意な事を持っています。指導中の休憩時間にお喋りをするのですが、知識の豊富さや言葉の巧みさに驚きます。

 

 今の日本の教育の問題点は、「人間が皆同じである」ことを前提として「工場で働かせる」ための一律な指導を施していることだと考えます。そもそも、江戸時代以前の日本には様々な職業が存在し、今の小中学生あたりの頃から専門的な教育を施されていました。それ故に、「あの人は〜の分野に詳しい」という認識はあれど、今のような頭の悪さと言うものは無かったのではないでしょうか?今の日本の教育はそれぞれの特性を無視し、とりあえず同じことを学ばせようとしています。確かに小中学校で学ぶ内容は何を考えるにしても役に立ちますし、重要なことだと思います。しかし高校や大学に進学することが当たり前になっており、これらの資格が無いと低学歴と見做されほぼ自動的に低所得者層に落ちてしまう現状はよろしくないと思います。この自動的な仕組みが存在するために、どんなに学校教育が向いていない人も頑張って勉強しないといけませんし、彼らが向いているはずの職業に就いて専門的な勉強をする機会が失われてしまいます。

 私の母は建築士です。地熱や再生エネルギー、日本伝統家屋など様々なことに興味を持ち、セミナー等に参加して私にも教えてくれます。最近聞いたのは、昔の名も無い日本人が今の有名な専門家以上に高い技術力を持っていたと言うことです。その辺にあるお社や民家には高度な技術が用いられているのを目の当たりにし、そう感じたそうです。これは若い時から師匠に従事し、学び続けたからでしょう。これは、今の日本では相当な覚悟が無いとできないことだと思います。

 

私は、日本の教育制度に次の二点を加えるべきだと考えます。

・様々な技術に触れる機会を増やすこと

・専門としたい職業や科目が見つかれば、それに特化した教育方針に切り替えること

 

まず、様々な技術に触れる機会を増やすことで職業選択の幅が広がります。私の生徒の1人が将来の職業についてかなり悩んでいました。彼女のご家族は医者であり彼女にも医療系に進んで欲しいらしく、とても勉強熱心なご家庭でした。そのため学校での勉強以外のことに触れる機会があまりなく、何かに興味を持つ以前に世界にどんな職業やニーズが存在するのかほとんど知らない状態でした。彼女には休憩時間に少しずつ、私が知っていることを話しましたが、やはり日常生活の中で触れていないと将来の夢や人生の目標は見つからないと思います。このようなことが、現在の日本の教育により起こっています。無気力は社会にとっても本人にとっても大きな問題です。だから、様々なことに触れて視野を広げ、人々が皆活き活きと生活できるよう支援する必要があります。

 

次に、専門としたい職業や科目が見つかれば、それに特化した教育方針に切り替えることについてです。一つ目により興味のあることが見つかれば、それについてよく学べるようにすることで、その生徒は今よりももっと熱意を持って楽しく学べるようになると思います。もちろん、ある程度は一般科目についても学ぶべきです。専門だけでは視野が狭まり、他の人々の考えがわからなくなって孤立することになりかねませんから。またこの制度により、人間の多様性が豊かになります。元来、多様性は失われる方向へ傾きます。entropyのように。しかし多様性があった方がアイディアが生まれやすく、また過度な競争もなくなり心のバランスが取り易い社会になると思います。以上の理由から、専門的教育が必要と考えます。

 

この二つを実現する上で必要なことがあります。それは、日本人が金銭的・知識的に豊かになることです。日本は徐々に貧乏になってきています。これにより美しいものやその値打ちがあるものにお金をかけることができず、昔ながらの家や美術品、琴や生花など心を豊かにするためのものや技術者が減少し、廃れてきてしまっています。皆さんも、お昼は簡単に吉野家で!とか、服はGUで十分!とか思っていませんか?私もそうです笑

だからこそ、みんながお金持ちになる必要があるのです。

また、知識的な豊かさも必要です。多くの人が芸術や歴史などの教養を持たなければ会話の中で各々の感情や思いを共有できません。以前、美しいものに触れる機会が多い人は心が豊かで長生きする、ということを本で学びました。だから、学校教育とは関係なくとも勉強する必要があるのです。

 

以上、想いを一気に述べてしまったので色々とごちゃごちゃになってしまっている感がありますが、少しでもわかっていただけたらなと思います。

ここまで読んでくださりありがとうございます!

ではまた!